セラピストとして活動していると、クライアントの痛みに向き合うことも多くあると思いますが、今回は改めてその存在意義というものを考えてみようと思います。
セラピストとしてはクライアントの痛みをなくしたり、減らしたりすることを目指してアプローチすることが多いと思いますが、どうしてもゼロにできない時もあるはず。
そんな時に痛みは全てが悪というわけではなく、一定は存在することで意義があると知っておくのもよいのではないでしょうか。
先に『痛みの存在意義』という書籍に書かれている結論を述べておくと、“痛みとは、身体が生きることを求めようとする心身への不快な働きかけ” という言葉にまとめられます。
今の時点では何のことやら?という感じかもしれませんが、一通り聞くと理解が深まると思うので一緒に考えてみましょう。
痛みの分類・種類
まずは痛みの分類・種類についてみてみましょう。
1981年における国際疼痛学会で痛みの定義がなされていましたが、それが2020年に以下のように改訂されました。
実際の組織損傷もしくは組織損傷が起こりうる状態に付随する、あるいはそれに似た、感覚かつ情動の不快な体験
このようにちょっと分かりにくい言葉が並んでいますが、実際の損傷があってもなくても痛みを感じる場合はあり、いわゆる「痛い!」という感覚だけでなく情動の不快な体験、と定義されているんですよね。
これは例えば「心が痛い」という物理的な痛みとは違った感覚も包含するようなイメージかと思います。
分類
まず痛みを分類してみると、表在痛・深部痛・内臓痛・中枢痛に分けられることが多いです。
このあたりは言葉の通りではありますが、表在痛は身体全体を覆う皮膚にある受容体から受ける痛み、深部痛は身体内部に発生する痛みで慢性腰痛や緊張型頭痛のような重苦しい痛みはイメージしやすいでしょう。
内臓痛は胃や腸がキリキリ痛んだり、虫垂炎のような腹痛も含まれ、中枢痛は受容体の刺激とは明確に紐づけられないもので視床痛や幻肢痛あたりも当てはまります。
これだけでも痛みにはいろいろな分類があることが分かりますね。
種類
また別の分け方として、侵害受容性疼痛・神経因性疼痛・非器質性疼痛というものがあります。
侵害受容性疼痛は組織の損傷あるいはその危険性を誘発する刺激によって発生する痛みで、Aδ繊維やC繊維を通して感じます。
神経因性疼痛は主に末梢神経による痛みで、神経の一部が損傷されて痛みを感じるもの。代表的な疾患としては椎間板ヘルニアなどですね。
非器質性疼痛は物理的な刺激がなくとも心理・精神が絡むようなもので、先ほどの国際疼痛学会の定義の中だとこのようなものも痛みに当てはまります。
セラピストとしてクライアントに関わる中でもこのようにいろんな分類・種類の痛みを感じる方と関わる機会があると思うので、それぞれに対するアプローチを学んでおく必要がありますね。
痛みは本当に存在するのか?
もちろん痛みは存在するとは思われるものの、あくまで本人の主観的な感覚なので他の人にその感覚を完全に共有することは不可能です。
例えば転んで膝に擦り傷が出来た、ということは多くの人でも経験があると思うので痛いということは分かるものの、それをすごく痛がったり、そんなにおおげさな反応をしない人もいるのが実際のところ。
痛みを評価しようと思った時に0〜10段階で数値化してもらったり、アンケート調査で「〇〇な時に痛みを感じることがありますか?」と聞いたり、いろいろな方法があるもののそれも本人の主観なので実際のところは周りの人には分からないですよね。
そのようなことを考えていると、本当に痛みを感じているかどう把握したらいいのか?という疑問が生じてきますが、そこで現象学の考え方が活用できます。
痛いという確信があるなら痛い
これまでの話の通り、痛みを感じているか?どの程度なのか?ということを把握できる絶対的な真理のようなものはありません。
哲学分野では帰謬法という相手を言い負かすことができる議論術があって、それを痛みに応用するならば「同じ刺激でも痛みと感じない人もいる」「時間帯や姿勢などによって痛みを感じない時もある」など、痛みを感じている人に対して「それは本当に痛みがあるの?」という方向に促すようなことができる論法です。
こうなると痛みの存在を証明する方法がないように思えてきますが、そこで活用できるのが現象学。
現象学はエトムント・フッサールという哲学者が提唱した概念で、痛みについて応用すると、痛みの発生するメカニズムやその強さ・質感などはどこまで調べても100%明らかにすることは難しいものの、本人が確かに痛みを感じているという事実=現象は疑いようのないものであろう、というもの。
本人が嘘をついていたら真相は分からなくなりますが、嘘はつかないという前提のもと“痛みを感じている”と本人が感じているのであればそこに痛みが存在する、という“確信”を持つことができるのです。
痛みの先にどんな欲望があるのか
先ほどの膝の擦り傷を例に挙げると、例えば何もせずにじっとしていると怪我をした部分にばかり集中してしまい痛みを強く感じる、また読書・ゲーム・スポーツなど本人が好きなことをしている時はその膝の痛みも忘れている、のように状況によって同じ痛み刺激が体にあったとしても感じ方が違うのは想像しやすいと思われます。
竹田青嗣という哲学者が「欲望相関性の理論」というものを打ち立てていますが、これがまさに背景にある人の欲望によって事実の認識が変わり、感じる現象も変わる、というもの。
実際にセラピストとして痛みにアプローチする際も似たような疾患・症状であっても、例えば本人が「仕事がつらくて休みたい」と思っているのか、「週末の休みにどうしても旅行に行きたい」と思っているのかによって今感じている痛みへの向き合い方・感じ方は大きく変わることがイメージできるでしょう。
ここでまた改めて最初に述べた結論を再度出すと、“痛みとは、身体が生きることを求めようとする心身への不快な働きかけ”ということで、身体が生きることを求めようとする=欲望のような認識ができるんじゃないかと思います。
さらに後半の不快な働きかけ、という部分を考えていくと痛みの存在意義がさらに見えてくるでしょう。
痛みの存在意義
では今回の本題に入っていきますが、改めて痛みは人だけでなく動物においても感じることがありますし、そこを見ていくと人における痛みの存在意義についての理解も深まってくると思うので、ここで紹介してみますね。
人以外の動物における痛み
冒頭で痛みの分類・種類の説明がありましたが、動物においてはどうなのか?ということも見てみましょう。
まず人と近い脊椎動物・哺乳類はイメージしやすいと思いますが、侵害受容器に対して四肢を逃避させる防衛反応が起こりますよね。
これによって哺乳類などの動物でも痛みを感じるんじゃないかという推測はしやすいと思います。
あとは魚においてはどう思いますか?
実は2003年にヴィクトリア・ブレイスウェイトらはニジマスが感じる痛みについて研究し、以下のような結論を報告しているようです。
- マスは痛みを検知する侵害受容体を持っている
- それは細胞組織へのダメージを検知する
- それが刺激されると、その情報が三叉神経に伝達される
- それによって魚の行動が変化する
また追加検証として、ニジマスにモルヒネを投与したところ痛み刺激があっても行動が変化しなかったとのこと。
これによって例えばマグロの解体ショーは倫理的にどうなのか?ということを考えるきっかけにもなりますね。
もうひとつ別例を出してみると、ハダカデバネズミは生育環境の厳しさから熱の痛みを感じる受容体を欠いた形態で進化を遂げている様子。
ここから考えると進化の過程の中で人に近い動物でも痛みを感知する機能が残っているし、必要なければ淘汰されているため、生存に必要なのであれば痛みの存在意義があるだろうということはこのあたりからも分かってきますね。
改めて人における痛みの存在意義
ここまで痛みについていろいろ情報をまとめてきましたが、改めて痛みがある意味を考えてみるとやはり生体制御・リスク回避の意義は強いと思われます。
例えば痛みが全くない状態を考えたとすると、体や心が危険な状態になっていたとしてもそのまま放置してしまって酷い状況になってしまうことも考えられますよね。
具体的には先天性無痛症(CIPA)について、痛みに気づけないことで舌先を噛みすぎたり、体温が上がりすぎても気づかずにサインを送れないことで小児期に亡くなることが多いようです。
普通に考えると痛みはできれば感じたくないものだと思いますが、逆に生体防御・リスク回避の観点から考えると不快だからこそ意味がある、ということにもなるでしょう。
実際に過去痛みを感じたことがあればそれを繰り返さないように同じ行動はしないようにするでしょうし、例えば罰のようなものを考えると痛みを避けたいからこそ行動を制限することもあると思います。
よって改めて『痛みの存在意義』における結論を見てみると、“痛みとは、身体が生きることを求めようとする心身への不快な働きかけ”とありました。
ちょっと哲学的な話になってきますが、生きようとするからこそ痛みを感じる。痛みがあるからこそ生きるきっかけにもなる。そういうことですかね。
その他
ここまでで痛みの存在意義の理解が少し深まったと思いますが、痛みは怪我や病気によるものだけでなく、人においては特殊なものもあるのでここで触れておきますね。
例えばピアスやタトゥーのようなものはあえて体に痛みを加えて改造を行う行為であって、ここには美意識や宗教的な意味合いも入ってくるのでこれまでの内容とは少し異なりますよね(マゾヒズム)。
他に世の中では拷問と処刑といった痛みを伴う行為もありますが、これも何かしらの罰として機能するもので、社会の秩序を守るために使われたりします。
セラピストとして直接考える機会は少ないかもしれませんが、例えば身体に痛みを強く感じる疾患の人における安楽死について、など社会的に考えられているテーマもいくつかあったりはするのでこれを機に痛みについていろいろ考えてみてもらえたらと思います。